バニラアイスクリーム

PEOPLE

戦後の日本は、高度経済成長期を経て、大きくその姿を変えてきた。

物がなかった時代。
大切なものを失い、そこからまた這い上がろうとしてきた時代。
人々は夢と希望を持って、目覚め、働き、そして多くの物を生み出してきた。そして、その多くは物質的な要素による幸福だったように思う。

物事は振り子のように反動を伴う。左に大きくふれた振り子は、その反動で右に大きくふれる。左に大きくふれた振り子が急に中央で止まることはない。

物がなかった時代の反動は、物に囲まれる幸福だったのかもしれない。

物に囲まれる幸福の遠く先にあるものはなんだろうか。「消費」だ。

食べる物がなかった時代。
家の小さな冷凍庫にバニラアイスクリームがあるだけで幸せだった。クリスマスがやってきたような気分だった。そして一口食べると、涙が出るほど美味かった。

消費することが当たり前になりつつある現代ではどうだろう。
近所のコンビニに行けば、いつでもどこでも、必要であれば何個でもバニラアイスクリームを買って食べることができる。
気がつけばバニラアイスクリームの存在で、クリスマスの到来を感じることはなくなった。

物で溢れる時代になった。
多くの人々が多くの物を所有するようになった(できるようになった)
すると、人々にとっての物の価値が変わっていった。

バニラアイスクリーム一つで涙が流れるほど心躍る幸せを感じることはなくなった。
人々はバニラアイスクリームを食べながら、テレビやパソコンの画面を焦点を合わせることなく眺め、また一口バニラアイスクリームを食べる。

物が増え、情報が増え、選択肢が増えたことは、遠くの山々の色合いを鮮明に感じ取れる高性能な望遠鏡を手に入れたようなものだ。

人々は遠くを見るようになった。
遠くを見れるようになった。

手元にあるはずの温かく柔らかい幸せを見つめる機会を見失い、自分の靴のサイズを忘れてしまうほど遠くを見つめ、バニラアイスクリームの味さえも分からなくなってしまったかのように。

「消費することの何が悪い」そんな声も聞こえてきそうですが、過度で無益な消費によって失うものは計り知れない。

最も強く深く失うものは、人間の感覚を刺激する「想像力」

想像力は、人間の活動の源泉になる。

何かを学ぼうとするとき、目の前の事象に対して「?」を持つことが学びのスタート地点となる。
その「?」は想像の中にある。
なぜ空は青いのか?なぜ影は黒いのか?光とは何か?鳥はなぜ飛べて、人間はなぜ飛べないのか?
「?」を頭の中に浮かべる時、人は頭の中にあるパズルを組み立てる。そのパズルのピースに不足があった時、そこに学ぶべきことや知りたいという欲求が生まれ、学習が始まっていく。

だが、想像力を奪われた人間は頭の中では「?」の発生が少なくなる。その要因はいくつかあるが、情報=答えが簡単に手に入る時代になったことが大きい。

「1クリックで世界の情報へアクセス可能にする」というビジョンを掲げ、実際に世界と情報をつなげているGoogleを代表するようなIT技術の恩恵により、答えが手に入りやすくなったと同時に、想像する力を失う局面も増えつつある。

一つの答えを得るために時間と労力を要した時代には、バニラアイスクリーム一つで幸福を感じることができた。しかし、物に溢れ、答えが簡単に手に入るようになったことで、コンビニに並ぶバニラアイスクリームのように消費することが手軽になった。

情報とは誰かの体験によって生み出された事象の結果である。
他人の体験を知識として受け取ることで、自分は体験を省略してしまう事になる。
情報という名のある種の答えや結論を受け取ることで、体験の中にある想像をする機会が失われる。

それは、答えは知っているが、答えを示す数式を知らないことと同じだ。

答えは一つだが、数式はいくつもある。
その余白にこそ、想像力が宿る。

答えが簡単に手に入ることを決して悪だとは思わないが、答えが先にわかっていることは物事の楽しみの半分を失うことになるかもしれない。

コーヒーも、恋愛も、そしてバニラアイスクリームを食べるときでさえも

そのプロセスに、人生の果実が眠っている。




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